おはなし

蜘蛛の糸

芥川龍之介の短編小説「蜘蛛の糸」です。

くわしくみる

  • 文章:東方明珠
  • 原作:芥川龍之介
  • 朗読:結城ハイネ
  • 絵:中田喜久

本文

ある日の事でございます。
おしゃか様は極楽(ごくらく)の蓮池(はすいけ)のふちを、ひとりでぶらぶらお歩きになっていらっしゃいました。
池に咲く蓮の花はまっ白で、よいにおいがします。
極楽はちょうど朝なのでございましょう。
やがておしゃか様は池のふちに立ち、水の中をごらんになりました。

この池の下は、ちょうど地獄(じごく)の底なのです。
水晶のような水をすきとおして、地獄の様子がはっきりと見えました。
地獄の底には、かんだたという男がいました。
かんだたは生きていたとき、人を殺したり家に火をつけたりした、悪い大どろぼうです。

それでもたった一つ、よいことをしました。道ばたを歩く小さな蜘蛛(くも)を見て、はじめは足で踏みつぶそうとしましたが、
「いや、いや、これも小さいながら、命のあるものにちがいない。その命をむやみにとるという事は、いくらなんでもかわいそうだ。」
と、助けてやったのです。

おしゃか様は、できるならかんだたを救ってやろうとお考えになりました。
そばにあった蜘蛛の巣から銀色にかがやく糸をとり、地獄へまっすぐに垂らしました。

さて、かんだたは地獄の血の池でおぼれていました。
ここは右も左もまっ暗で、明かりといえば、おそろしい針山の針がぎらりと光るだけです。
あたりはしんと静かで、ときどき罪人たちのため息が聞こえてくるばかり。かんだたは疲れ果てておりました。

ところがその時、遠い遠い天上から、銀色の蜘蛛の糸が、きらきらと光りながら頭の上へ垂れてきました。
かんだたは、思わず手をたたいてよろこびました。
「この糸をのぼっていけば、地獄からぬけ出せるぞ。いや、もしかしたら、極楽へ行けるかもしれない。」
かんだたは蜘蛛の糸を両手でつかみ、一生けん命に上へ上へとのぼりはじめました。もともと大どろぼうですから、こういう事は得意なのです。

しかし極楽は果てしなく遠く、なかなかたどりつけません。かんだたは、一休みしました。
はるか下を見おろすと、血の池はもう見えません。このままのぼっていけば、きっと地獄からぬけ出せるでしょう。
「しめた。しめた。」
かんだたは何年ぶりかに笑いました。

ところが、とんでもない事に気づきました。蜘蛛の糸の下の方には、何百、何千の人々がつかまっていました。まるでありの行列のように、よじのぼってきます。
蜘蛛の糸は細くて、今にも切れてしまいそうです。
そうなれば、再び地獄へまっさかさま。このままではいけません。

かんだたは、大きな声を出しました。
「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸はおれのものだぞ。お前たちはいったい誰にきいて、のぼって来た。下りろ。下りろ。」

そのとたん。今までなんともなかった蜘蛛の糸が、急にかんだたのぶら下っている所から、ぷつりと音を立てて切れました。

かんだたは、独楽(こま)のようにくるくるまわりながら、やみの底へ落ちていきました。
後にはただ極楽の蜘蛛の糸が、きらきらと細く光りながら、月も星もない空の中途(ちゅうと)に、短く垂れているばかりでございます。

おしゃかさまは極楽の蓮池のふちに立って、すべてを見ていらっしゃいました。
やがてかんだたが血の池へ沈んでしまうと、悲しそうなお顔をなさりながら、またぶらぶらお歩きになり始めました。
自分だけ助かろうとするわがままな心が、ばつをうけたのでしょう。
しかし極楽の蓮の花は、少しもそんな事を気にしません。
白い花はゆらゆら動き、よいにおいがあふれております。極楽ももう午(ひる)に近くなったのでございましょう。

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